歴 史

続日本紀
「続日本紀」に文武天皇(もんむてんのう)の2年(698年)7月に伊豫国から「白」(しろめ)及び「鉱」(すずかね)を朝廷に献上したことが記されています。「鉱」というのは、元九州大学教授 木下亀城著「原色鉱石図鑑」によると、アンチモンのことであるとされています。「続日本紀」に記されている「白」は伊豫国産ということだけで、産地は明記されていません。文献上の確証が見当たらない以上断定することができませんが、市之川産ではないかともいわれています。もし、そうだとすると、輝安鉱の鉱山としては、珍しく歴史の古いものとなります。

 

江戸 再発見
江戸時代の初期にあたる延宝(えんぽう)7年(1679年)、大浜の庄屋曽我部親信が保野山(ほうのやま)の仏ヶ峠(現在の釜所(かまとこ))で道路の修復工事を行っているときに偶然鉱脈(※2)の露頭(ろとう、地表に現れた部分)を発見し開発を行いました。江戸時代には30人程度の規模で操業していたという記録が「市之川鉱山沿革誌」に記されています。
しかし、製錬法が未熟であったことや、産出されるアンチモンの価格の変動が激しかったことなどにより操業するのが難しく、採鉱と休鉱を繰り返しました。
また、小松藩も経営にあたった記録が「会所日誌」(かいしょにっし)をはじめとする文献に残されています。

※2 鉱脈とは鉱床の一種で、岩石の隙間に板のように固まっている鉱物の層を言います。また、(ひ)ということもあります。

 

明治・仕事
最盛期(第1期黄金時代)
明治中期(明治15~30年)
採掘面積を減少させ、採掘効率を高めることによる採算性の向上、販売の拡張並びに製錬の技術改良の努力により産出量が増大し、鉱石の価格も高騰し、最盛期を迎えることとなりました。
さらに明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会(東京上野)、明治11年(1878)のパリ万国博覧会、明治26年のシカゴ万国博覧会に出品して受賞し、市之川産輝安鉱に対する内外の称賛は一段と高まりました。この頃に産出した輝安鉱の結晶はほとんど海外に流出し、諸外国の博物館に所蔵されています。
また、この頃に「お山騒動」(※3)が起き、社会問題に発展しました。
※3 お山騒動とは、一獲千金(いっかくせんきん)を夢見て鉱山の借区及び試掘を出願した者が悪計をめぐらし、区外乱掘、無断譲渡、他の鉱物密売、鉱脈偽装などの悪行が横行したことを言います。

第2期黄金時代
大正初期(大正3~6年=第1次世界大戦)
「戦争鉱山」の異名の示すとおり、アンチモンは砲弾の材料として使われ、戦争がはじまると採鉱が盛んになりました。

 

昭和時代
昭和元年頃から伊藤武平と髙橋房吉が事業を再開し、昭和5年頃まで抗夫約30名が広範囲にわたって手掘り採鉱を行いました。しかし、探鉱を行わなかったため、年々産出量は減りました。
昭和21年には住友金属鉱山株式会社の所有となりましたが、昭和22年再び休鉱しました。
昭和26年に事業を再開し、手掘り採鉱により開発を進めましたが、探鉱並びに開鉱を行う必要が生じ、昭和29年から機械による探鉱坑道を掘り進めました。
昭和30年頃にはボーリング採鉱を行いましたが、採算上の問題等により昭和32年5月に事業を中止し、その後閉山しました。
白目山(しろめやま)神社前(市之川公民館入口)には伊藤武平翁の頌功碑(しょうこうひ)が建てられています。

 

坑内巻き揚げ機坑内巻き揚げ機
大盛坑で荷物を積んだトロッコを引き揚げるのに使用(50馬力)

 

 

 

 

 

伊藤武平翁の日伊藤武平翁の碑
明治39年から約30年間市之川鉱山の責任者として探鉱にあたりました。